出会いというものは、いつも唐突に現れるものですね。
3月、4月、新しい出会いと別れが続いています。
古内 東子さん
こちらは実際に出会ったわけではないけれど。
偶然に知ったシンガーです。
年齢も少し落ち着いた大人の女性。
安堵感を感じます。
ファンになった気がします。
iTunesでダウンロード。
明日は車につないで走ります。
では、みなさん、おやすみなさい。
よいGWを。
もう瓢湖には白鳥はいないのだろうな。
自宅近くにある鳥屋野潟にも白鳥の姿は見られない。
この冬と言っても、今はもう春。 なのでちょっと前の冬だった瓢湖にて。
新潟の冬の瓢湖と言えば、やはり雪景色だと思うのだが、どうもタイミングが合わず
たまたま娘と一緒にスナップのように撮った写真を載せる
私の趣味の一つは写真
そう話をすると、最近は何を撮ったの?と聞かれたことがある。
趣味と言っていいのかなと思ってしまう、なぜなら、あまり写真を撮ったというような作品作りっぽいことをしていなからだ
ちょっと行ってパチリと撮った私から見た瓢湖はこんな形
そんな意味で載せる
あまりにごちゃごちゃしたものはトリミングして、ながーい写真になっている。
天候の悪い日も素適な風情があるので、私は好きなのであるが、やはり写真は光量の豊かなときや、夕景、逆光、いずれにしても太陽が輝いているときの方が好きであるし、良い写真も撮れると思う。
あまり気温が上がって霞むと残念な感じになるし、フィルターで調整したり、いまどきならデジタル編集になるのだが、あまり好きではない。
ゆっくりと撮影旅行。ときどき思うのであるが、当面は夢となりそうだ。
写真を真剣に撮ると時間がかかる。その時間を共有できる人とでないと、一人旅行になってしまう。

封印していことがあったのに
この3月は 色んな事があって こんなに長く感じる1カ月は 随分と久しぶりな気がする
子供の頃や そうだなあ 高校生くらいまで 1か月という時間は短いなどと思わないもの
それは日々新鮮なできごとの連続で おそらく流されるある種の余裕が無く 結果 時間を短いなどと思わないのではないか
この3月 仕事が多数絡み合い ISOの外部監査というイベントもある くしくも外部監査の日は苦情処理の出張となり 楽になったのか それとも神の悪戯か
出逢いというものは不思議なもの 互いの存在を知らない者どうしが 一度知ってしまうと
心配の対象となる
明日は初めての訪問先 あわら市へ
来週は宮城県栗原へ
戻ったら、四日市へ
また それぞれに新たな出逢いがあることだろう
こちらに戻ったら 多少なりともゆっくりしたいが
出逢いがあれば別れがある
別れも3月にやってくる
出逢いがあって 別れがある 人生は その繰り返しである
退職するNAOさん 今までありがとう
あなたと乗り越えたことを 忘れない
NONさん これからも よろしくお願いします
出逢いと別れの3月は これからが勝負である
週末に懇談会があり、二次会で古町のクラブに行った。
このお店は二度目である。
金曜であったが、僕らが行った時間が、やや早いこともあって、しばらく貸切状態。
これも金曜だったせいか、スタッフの女性も大勢で、7名だったかな?
お客の僕らよりも店のスタッフの方が多い時間が1時間くらいあった。
新潟、古町(furumachi)。
歌にも出てくるが、大人の街というのが昔からのイメージ。
東京、横浜時代は先輩と毎週のように、お店に最後までいて、始発電車で帰るようなこともあったが、大人?になってからそのような経験はあまりない。
新潟にUターンしたとき、前の会社になるが、社長と古町の店にいたのだが、大雪でタクシーがまったく来てくれず、朝方にお店のママの彼氏?に送ってもらったことがあったっけ。
女性スタッフの魅力というのは、きっちり意見を言ってくれる。話を聞いてくれる。優しく見方をしてくれる。決して意地悪などしない。そうしたところがプロの仕事と言えるかもしれない。
いい仕事してくれたなあ。気を使わない時間が一番。noriさん、ありがとう。

左にいて映っていないが、前回、私の援護で意見してくれた女性がいる。
私をフォローしてくれた。感謝!
いまさらながら女は強い。とも思った。
そう、ビシっと言える人は回りにいない。
11年。
若い男女が11年の間、つながりを持つというのは、独身であるし、なかなか長い年月だと自分でも思う。
この年月の中で、彼女には、他に好きな人ができて、一時、結婚を口にしたことがあった。
そのときは、これで終わりだなと、心底落ち込んだものであるが、私も他に好きな女性がいなかったかというと、そんなこともなく、どこかでお互いをリザーブしていたのかもしれない。。。そんなことはないか。。。
著者と違って、手紙の数は随分と少ないと思うが、19歳か20歳の頃、まだ手紙の交換をしていた。そのころ、彼女の母親が、勝手に手紙を読むから女性の名前で出してくれと言われたことがあった。そこで東京の従妹に確か本当の住所と本名で封筒の表裏だけ書いてもらった。涙ぐましい努力。
話をすると止まらないが、この話は今回でおしまいにする。
一つだけ、私にとっての奇跡の話題を紹介する。
なかなか会えずに気持ちが募っていたころ、ふっと彼女の住んでいる街を見たくなった。
土曜か日曜の午後だったろう、ふいに電車の路線だけ確認して出かけた。
彼女の暮らす街につき、とくに何をするとでもなく街を歩き、夕食を駅近くのお店で取った。
次に近くの時計店でライターを買った。
もうすっかり暗くなり、この街なんだなって噛み締めて、東京に戻る事にした。
千葉駅に到着し、乗り換えのために、電車のドアの前に立ち、停車とともにドアが開くと、私の目の前には彼女が立っていた。
こんな奇跡があるだろうか。そう、思った。
彼女は自宅に帰るために折り返し運転の電車に乗ろうとしていたのだ。
どこかでちょっと時間が狂ったり、私が乗った車両、降りるドア、彼女が乗る車両、そのドアが違っていれば、会えなかったわけだ。
これを奇跡と言わずして何と言うか。。。
ここでハッキリ言えることがある。
奇跡と縁は別であるということ。
これも私が人生の中で学んだ大切なことの一つである。
文通して2年目くらい?
彼女から突然、文通できなくなったという手紙が届いた。
親が干渉し、受験生だからという理由だった。
そのときは、素直に、そのとおりの状況であったので、グレーな感じで一旦停止。
その後、週間ではなくて、月間、または数ヶ月に一度の間隔で、手紙を書いた。
彼女からは、すぐに返事は来なかったけれど、返信があった。
その後、著者の場合は、音楽にのめり込んで留年。彼女は地元の短大に入学。遠距離で手紙でしか会話のできない二人には環境の違いから、すれ違いが生じ、一旦離れてしまう。
私たちは、東京と千葉という割と近い環境ではあったけれど、彼女は短大に行きながらバンドを組み、リードボーカルやキーボードの演奏。そんな活動をしながら、学生とのコンパなどに参加。私は男だけの世界で、電子回路、電気回路とにらめっこ。
わりと都会派の彼女と田舎から出てきて、基本、女性が苦手な私。寮住まいで、たまに彼女から寮長経由で電話がかかってきたが、学生時代は、何回会ったことだろう。
やがて、彼女は保母(保育士)の資格を取って保育園の先生。
私は、電気メーカーに就職。
お互い仕事に忙しく、忘れた頃に会うことを、ゆっくりと重ねていた。
そうこうして、著者と同じく11年ほど続いた。
著者は結婚。そして、その幸せを維持できず、やがて最愛の彼女は癌で亡くなってしまう。
私の場合、きっと彼女は元気に幸せに暮らしているだろうと思っているが、実際のところはまったく分からない。
数年前に東京に出張したとき、地下鉄で彼女に似た女性を見つけてびっくりした。でも声をかけることができなかった。20代の記憶が最後であるし、本当に彼女であっても、そうでなくても、今、何を話せば良いのか。
11年と言えば、色々なことがあったが、年数のわりには会っていない。
人生にとって大切な経験であったことに違いない。
間を空けることなく、文通が始まった。
感覚的には週一くらいで送っていたように思うが、返信は翌週?そんな感じだったと思う。
昔は関東に手紙が届くまで三日くらいはかかっていた。
お互いの学校の話題が中心だったように思う。
手紙の会話は心の会話。
やがてどんな容姿の女性なんだろうと思うのが自然。
互いに写真を交わす事になる。
著者と同じように、写真を見て驚いた。素直に可愛いと思ったものだ。
どこかで可愛くないことを期待、想像していたので戸惑った覚えがある。
高校一年の夏だったかと思う。
夏休みに東京の学校見学と兄のところに遊びに行くことを兼ねて、お盆前くらいに東京に行った。
初めて会ったのは船橋駅の改札。
先に到着して待っていた私の前に、足早にやってきて、あたりを見渡している彼女がいた。
見た瞬間に分かった。
私が近づくと彼女もすぐに気が付き、笑顔で、こんにちは?はじめまして?のような会話が最初だった。
短い初デートは数時間で終わり、私は東京に戻った。
初めて会った見知らぬ土地の見知らぬ女性との出会い。いまどきならネットを通じて結構起こることなのかもしれないが、手紙が届くのに三日かかる時代である。
印象深く、大切な思い出になっている。
先日の土曜日、雪の様子が心配で実家に行く。
一仕事を終えて、TVを見ていたら、600通のラブレターの著者の語りと、再現VTRが流れていた。
時代は、10年近くことなるようだが、ところどころ、自分の記憶とリンクする。
再現で出ていたのは、学研の中2コース。私は旺文社の中二時代か中三時代だった。
手紙や詩などが好きな私は、遠く離れた場所で暮らす、見知らぬ女性との文通に魅力を感じた。
著者と同じように、私も会いにいったことがある。初めて会ったのは、高校1年だったか、2年だったか。お盆間近の夏休み。船橋駅の改札を出たところで待ち合わせした。
私の方が先に着いて待っていたのだが、ほどなくして彼女が現れ、見た瞬間に分かったものだ。写真をもらっていたから。
文通のきっかけは、雑誌だったけれど、著者と同じように、実は文通を希望した人ではなく、その友達を紹介してもらう形で、まったく別の人と文通することになった。
村上市小町にある、老舗割烹 新多久
28年前後ぶりに訪れる
初めて行ったのは、小学校の恩師に連れて行ってもらったのだが、20歳か21歳の頃だ
それは、遠くむかし、友人と二人で村上の恩師のところに遊び行った夏のこと
新多久は何年か前に火災にあって古い建物は無くなってしまい、今はリニューアルした形である
いつか行ってみたいと思いつつ、ようやく足を運ぶことができた
今ある建物の場所は、おそらく同じだと思う 入口付近のたたずまいが遠い記憶にリンクする
果たして?
今回は妻と二人で立ち寄った
また、今度、ゆっくり来よう
そう、思った
皆様 新年すでに明けております。おめでとうございます。
2011年は、3.11からタイの洪水へとつながってしまい、お客様や、営業拠点でも被害があり、文字に表すのも、軽々しくて難しいものがあります。
日本人の強さと優しさ、まじめさを感じることもできた2011年でした。
明けて2012年 年齢とともに一年は短く感じられ、節目感覚も薄れてしまいそうです。
しかしそれは、日々、戦っているからであるとも言えます。
皆で、良い年だったねと笑って2012年の年末を迎えられるように、がんばっていきます。
さて、この正月休み、娘がiPod touchを購入。無線lanにつなげるのに、半日程度かかってしまいました。新しい親局と、HUB、テーブルタップも娘が購入。私は、せっせと立ち上げ作業。
ブログやメールをやりだすので、使い始める前に、自らオキテを書いてもらった。
今のところオキテを守りつつ、楽しんでいる様子。
この状態を維持するのも大切な2012年の仕事である。
去年nanoを買って、主に車に接続して使っているのであるが、8GBのtouchのなんと安いことか。そっちの方がインターネットとアプリもいじれて、仕事的にも役立つなと、ちょっと失敗した感あり。PAD系ならばAndroidの方が良いかなとも思ってみたり。
14歳の娘と、その友達がtouchを使いこなすのを見て、もうスマホの時代に切り換わったんだなとも思う。しかし、あのような形のものを耳にあてて電話するのは、本質として使い良いとは思えず、まだ無理がある気はする。iPhoneの電話なし=touch+αで外でもインターネットができれば、電話は、電話で電話らしく小型のものがあれば良いのでは。しかし二つ持つのも邪魔である。
もうちょっと、どうにかなりそうな気がします。
親局増設作業と娘がどんどん使いこなす姿を見て、新しい時代を感じた正月でした。
皆様、今年も、宜しくお願い申し上げます。
11月20日 タイトルどおり、49号線で、ばんえつ物語号に出会い、それを追いかけて津川駅へ。
津川では水の補給などをしていたようだ。乗客は皆、外に出てC57の写真を撮っていた。15分くらいしてからだろうか、ようやく出発。それをパチリ。
その後、雨の中を会津若松へ
もう12時をだいぶ回っていたので、つきなみではあるが鶴ヶ城へ
もしかすると紅葉が見られるのでは?と思ったが、とうに時期は過ぎたらしい。城内の駐車場に行くと、銀杏から随分な勢いで葉が落ちてくる。車の屋根に貼りついた何枚か、しばーらく一緒であったので、1枚だけ屋根から退避。そのまま自宅まで持ち帰った。
福島は風評被害で観光客が激減していると聞く。季節的なことや天候的なこともあるだろうが、やや人は少ないようには思えた。
久しぶりの鶴ヶ城。小学校の修学旅行以来、訪れると心が癒される会津。
城内には栃木県の中学生が描いた応援の横断幕が飾られていた。
がんばろう福島。がんばろう日本。
立ち上がろう。みんなの足で。
I LOVE FUKUSHIMA.
鶴ヶ城天守閣より撮影 NIKON D70s SIGMA18-200 18mm リサイズ編集
今、OLYMPUSが話題だ。
正直、がっかりした気持ちはある。
しかし待てよ。オリンパスの技術者が関係あるのか?そんなことはあるはずがない。
ならば、オリンパス製品は関係ない。
私にとってOLYMPUSというブランド=OM-1だ。
中学2年のとき、友人と早朝に近くの山を登ったことがある。そのときに彼が持ってきたのがOM-1だった。当時、TVではお坊さんが出てくるOM-1のCMが流れていた。
とても印象深く、お坊さんの顔と声はイメージできるのだが、もう一度、そのCMを見てみたい。でもYOUTUBEなどでも見ることはできず、検索してもヒットしない。せいぜい大場久美子のOM-1Oくらいだ。
どこかで動画が見られないだろうか?
がんばれ!オリンパスの社員の皆さん。
歯医者さんでもOLYMPUSのロゴを目にする。
知らずに、オリンパス製品にお世話になっている人は多いことだろう。
私は、OLYMPUSが好きです。
東京から新潟にUターンして以来、概ね、中条大祭には足を運べている。
とは言え、一日ゆっくりというわけにもいかず、今回は日曜の夕方から出かけた。
子供の頃からの懐かしい祭り。大人になって見え方は違ってくるけれど、子供の頃のワクワク感は、よく覚えている。
本町通りが広くなったからか両脇に露店が並ぶようになった。
お化け屋敷的な小屋が出ていると雰囲気が出るのだけどな。
子供向けの露店の種類も減っているような気がする。
初日とあって山車が順番に参拝していた。
しょぼいカメラしか持っていかなかったが、参拝を終えてさっそく動き出した神明組の山車が目の前で止まってくれたのでパチリ。
意外に写真撮ってる人って少ないよなあ。と、これもいつも思う。
せっかく踊ってくれているのになあ。
また、来年も見に来れたらと願っている。
お盆休みも あと一日 しかし 明日は仕事をするので 今日でおしまい
短い夏の短い休みの思い出に 今日は 関川村の丸山公園に行ってきた
この丸山公園 丸山大橋が掛かっているのであるが 1978年 夏 橋などは影も形も無く
そこにあったのは 丸山公園キャンプ場
このキャンプ場 高校1年の夏休みに クラスみんなで行った思い出のキャンプ場
高校時代の聖地の一つ
たまに訪れるのであるが 少し久しぶりな気がする
思い出の地 娘と訪問
小さな木の橋に娘が立っているが この娘が立っている場所が ちょうど 肝試しの折り返し地点であった
実行委員であったので 下見に行って 肝試しのコースも決めた
16歳の夏 大切な思い出の地は 形はちょっと変わってしまったけれど 丸山大橋があることで 逆に一生 そこに残ることだろう
キャンプ場の事務所だった建物は 今はレストラン丸山大橋になっている
ここの食事は 結構 美味しい 今日で三度目であるが 外れはない
キャンプファイヤーもやったので 地元の消防団の人たちが このレストランになってしまった旧事務所に待機してくれていたものだ
こちらは目いっぱい楽しんでいる中 申し訳ないなあと思ったものである
キャンプファイヤーをやった場所は 今 駐車場になっている
荒川土手ぞいに進み あらさわ橋を渡って山の中に入る 最後にコンクリート製の階段があって それを上るとキャンプ場なのであるが 今は レストラン丸山大橋前の道路脇に出る この道路を渡ると 見た感じは変わってしまったが 僕らの聖地の入り口
「星霜流れ その地は 変われど 我に映るは あの時と同じ情景である」
恩師の詩をちょっと真似ました
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肝試し折り返し地点 この奥を1.5kmほど進むと鷹巣キャンプ場があるようだ
木の橋から天を見上げて
丸山大橋から荒川を望む 下の河原は皆で水遊びをした場所
キャンプ場の入り口だった あらさわ橋
このところ忙しく、7月となりました。が、今頃父の日の話題。
父の日は、出張のため京都で迎えることになった。
出張に出る日の朝、娘が出張で不在になることを知り、登校前に即行で作ってくれたのが、父の日のプレゼント?
お金は掛からず、親に効果のあるこの技が、まだ使える年齢ギリギリというところか、いや、もうOUTかもしれないが、この方が親としては嬉しいものだ。
などと言うと、実に平和な家族のようだが、おそらくどこの家でも大変な年代の子育て時期である。
でもきっと、大方の家ではあるだろう通過点であるので、これも幸せなのだろう。たぶん。
いつかそう思う日が来ることだろう。
後日談。
先日、初めて肩もみ券を使ったのだが、それを受け取った娘が、あれ?巻になってる!と大笑い。表書きは概ねOKであるが。。。
朝急いでいたから。。。確かにそうである。でも、間違わんでね。
これで二度と同じ間違いはしないでしょう。たぶん。
クイックリリースアダプタ SLIK DQ-20
手ぶれ補正機能のあるレンズなど持っていないため、200mm以上でシャッター速度が遅いと実は結構手ぶれする。
三脚使えばいいのだが、家族ずれで持って歩くのはちょっときびしい。それともう一つ、今持っているものは独身の東京時代に購入したもの。当時の値段で1万前後だったように思う。当時と言うのは軽くひと昔以上のだいぶ昔。
だからとも言わないがクイックシューなどは付いていない。いまどきは3千円前後の三脚でも標準で付いているものも多い。
このクイックシューがないと、結構、よし三脚使うぞって覚悟しないと、なかなか使えない。そういうことじゃないかと自問自答していたのだ。
かといって毎回使うわけでもなく、ごつそうなベルボンではなくてスリックのものにした。値段も手ごろ。
さて三脚に装着。。。と言いたいが、愛車が車検で入庫しており、トランクに入れっぱなしなので、ものだけパチリ。
この愛車も維持費が高いとクレームがついており、最後の車検になるかもと思いつつ、なんだかさみしい気持ちの土曜日であった。
ゴールデンウィーク後半初日
連休中も練習試合の娘が珍しくオフ日であり、もうついて来なくなった息子をおいて、福島方面にでかけることにした。遊びに行くにしても福島に行く。
最初に行ったのが柳津の福満虚空蔵尊。柳津は以前に娘と二人で来たこともあり今回で三度目かと思うが、妻と一緒は初めてである。まだ桜が十分に美しい。散った感じもなく満開というほどの華まではなかったが綺麗だった。
名物のあわまんじゅうの出来立てを頂き、ぶらり散歩。
斎藤清画伯の美術館があり、結構、見応えがある。版画がなぜ枚数限定があるのかも分かった。
多色刷りの上品な色合いと暖かいタッチの木版画は、もっとゆっくり見たい。
すぐ対岸にプチホテル月見亭というのがあって、今度、泊ってみたい。そう思わせるたたずまいだ。
続いて、会津本郷に向かう。今は美里町という名称に変わっているが、本郷焼の町である。
その昔、鶴ヶ城の瓦を焼いていたらしい。
沢山の窯元があって、歩きながら直売所を見て回る。窯元ごとにデザインがまったく異なっており、手ごろな値段のものも多い。
人は日々の暮らしの中で様々な葛藤と共存しているが、少しでも暖かい気持ちになる時間を、取り戻してもらいたいし、そうありたい。
4月27日~28日と札幌出張
久しぶりにいつもお世話になっている関連会社の方々とゆっくり、お話ができた。
いつも電話で声だけは知っていた女性の方とも、夜の部でご一緒できた。彼女は高専を出てから工業大学に進み、トヨタ系の会社で組み込みソフトを経験し、今の会社に移ったそうな。そんな話は初めて聞いた。いつも完璧な電話対応で隙がなく、たまに冗談の一つも言おうと思いつつ、そんな会話もできずにいた。最近、美しすぎる何とか議員。などという記事を目にすことがあるが、とても綺麗な方だった。お子さんと、小柄な別業種のご主人がいらっしゃるそうで、夜の部も一次会で帰られた。お子さんを預けているとのことで。
今はうちの仕事をやってくれているということ、声:顔:スキルが一致すると、開発の仕事は格段にしやすくなる。アウトソーシングで海外に出していたりすると、一体、この辺の感覚はどうなるのだろう。現地と日本を結ぶI/F部分の技術者は日本人を使うという話も聞くが、実際に仕事をしている人がどんな人かなど、分からないのだろうなあ。これって意外と大きな問題なのではないだろうか。
札幌は夕方から結構寒くなった。最初に行ったお店まではタクシーで出かけたのだが、中に入ってからもしばらく寒かった。
写真を撮ろうにも、天気がイマイチな大通り公園、とくにそそられるものがなく、ホテルの景色もとくに北海道らしさはないので、またまた、新千歳から新潟までの飛行機からのカットを載せる。
この写真が撮れて良かったなあと、しみじみ思った。というのは、この飛行機に乗り遅れるかと思ったからだ。
ホテルは大通り公園の大通駅に近く、地下鉄~JRと経由すれば、1時間以内くらいで新千歳に着く。
ところがホテルの前に空港行きのリムジンバス、バス亭があるというので、その誘惑に負けてバスにした。のが大失敗。
8時40分発の飛行機に乗るのであるが、ホテル前は7時6分。所要時間は70分と聞いていたが、バス亭には70~90分と書いてあった。少し不安になるも、朝だからなあ。バスも本当に7時6分に来たのだ。まっ、大丈夫だろうと思い、リムジンに乗車。すぐに心配になったのは、いつまでも路線バス状態で、やたらと止まる。乗ってくるのは一人か二人程度。それを繰り返し高速に乗ったのは北広島。そこからも実にりっぱな安全運転。
徐々に心配になってきた。結局、空港に着いたのは8時30分。
玄関から国内線と書かれた看板に向かって階段を駆け上がり、走るのだがJALカウンターしかない。セキュリティチェックのお姉さんに、ANAはどっちですかあ!って聞いて、指差す方、まったく反対方向に走った。
そこでよせば良いのに、今度は荷物を預けてしまった。そもそも時間がないのでNGかと思い、間に合わないですか?って聞いたが、係の女性もあわてたようで、私を無視して連絡をとっており、じきに係の男性が私の荷物を取りに来てくれた。
次の関所はセキュリティチェックである。それなりに人がいる。もうだめだと思い、近くの係のお姉さんに8時40分です!って声をかけ、真顔なお姉さんは、列の前の人に何時の飛行機か聞いて、その方が余裕があるので、私を割り込ませてくれた。(お世話になりました)セキュリティを通過すると、さらに時間はなく、別のお姉さんが私のチケットを握りしめると、搭乗口にもうダッシュ。私も後ろからもうダッシュ。ゲートに着くと、ご協力ありがとうございました!などと言われ、こちらからもお礼を言って、そのままダッシュで機内に突入。あまりにバタバタして、お世話になった空港の女性スタッフの顔が思い出せない。すみません。
空港を走ったことは過去に2回ほどあったが、空港のお姉さん先導で走ったのは初めての経験であった。
人間、楽をしようとすると、必ずしっぺ返しがあるんだなと、あらためて勉強させていただいた。
関係した方、すみませんでした。
札幌の会社の皆さま、遅くまでお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
素適なモノを一緒に作って(創って)いきましょう。
1枚目は胎内市の中条病院に見舞いにいった際の、3階の窓からのカット
小さな町で、あまり高い建物がないので、こうしたカットを撮るのも見るのも初めてであり、ちょっと新鮮味がある。
中条の町全体を見た記憶は、子供のころに近くの山に登って、そこから見た景色だと思う。
羽黒神社というのがあって、境内と言うのかな、山の中腹にある神社であり、そこから見た景色が一つ。もう一つは隣に位置したところに石切山、これは通称なんだろうが、昔、石を切り出したのだろう、そんな感じの場所と、岩山があって、そこに通じる山道の途中に、ちょっと岩が突き出たところがあって、そこに上がって町の方向を見ると、町並み全体が見えた思う。
高校1年のときに山岳部にいて、毎日、この山までランニングしては、その神社や、石切山の階段を駆け上がったり、うさぎ跳びをしたり、部員をおんぶして登ったりしたものだ。
しかし、その時代を過ぎてからは、ほとんど行ったことがない。そういえば、20歳前後のころ、東京の歳が離れた従妹が夏休みに遊び来た際、私も帰省していて、この山登りをさせたことがあった、通称、マイクロウェーブと呼んでいた、まあ、実際、アンテナが立っているのであるが、そこまで行った。
そのとき丁度、新築工事をしていて、下の写真に(知っている人でないと分からないかな)写っている山の上のアンテナが、その完成品なんだと思う。私たちが子供のころのアンテナはもっと四角い建物の感じのパラボラアンテナであった。
もう1枚は、中条病院から市街方向に行った踏切の前である。羽越本線であるが本数は少ないので、そう踏切で先頭になって停車することもなく、思わず携帯で撮ったのであるが、シャッターの反応がにぶいわけで、その遅延の結果、なんとなくぴったりいい感じに、いなほ号が入った。
昔、新幹線が無い頃は、この「いなほ」に乗ると、乗り換えなしで4時間半で東京に行けたので、便利だなあ、凄いなあと思ったものだ。
この電車も、結婚してからは乗った覚えがない。
町中散歩で写真を撮るのも楽しそうだ。もっとも、きがるに写真を撮れる時代でもなくなったので、気を使わないとだめかもしれない。
49号線は福島県の県境に入るちょっと手前に駐車場がある。
その中には、まだ雪があって、まともに入れる状態ではなかった。
道路にはさすがに雪はないが、道路わきには、まだメートル級の雪が黒っぽく残っている。
霊峰飯豊山。飯豊山の見える東北各県や新潟では、この飯豊山系伏流水による酒造りが盛んだ。
飯豊山につらなって朝日連峰がある。高校時代には、この朝日連峰を縦走した。飯豊山には登ったことがないが、朝日連峰よりも厳しいと聞く。
もう桜の開花が聞かれるようになり、地域によっては満開である。
東北の春、本当の意味では春はまだ遠い。しかし、一歩一歩、春に向かい、その先の本当の春にみんなで力を合わせて突き進むしかない。
(49号線会津方向。西会津手前の国道脇、駐車場より)
昨日の夕方も大きな余震がありましたね。
まだまだ続きそうです。
原発問題に、そこから派生した計画停電の影響。
私たちの仕事にも影響が出ています。
今回の地震は東日本広範囲にわたっておりますが、原発を抱えて避難されている方が大勢いらっしゃる福島を応援する応援歌の存在を教えてもらいました。
ご紹介します。
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「I love you & I need you ふくしま」猪苗代湖ズ
下記は、youtubeです。
http://www.youtube.com/watch?v=3CQJuAN2BEY
携帯やPCでダウンロードができるようになっています。
420円が被災地への寄付になります。
がんばろう日本!
エイプリルフールの日 JALの一番機で大阪に向かう
朝はちょっと肌寒いが良い天気だった そんなわけで佐渡が綺麗に見えた
やや霞んでいるが 佐渡らしい島の形を確認できた
佐渡を綺麗に見たのは二度目だと思う 今回は能登半島を見ることができず おそらく空路が異なるのだろう
伊丹に降りる際 いつも思うのは 学校が多いな つまりとても目立つ それだけ人口が多い 密集しているということなのだろう 着陸態勢なので写真は撮れない
この日は日帰り出張 帰りは伊丹からの最終のJALで帰還
伊丹を飛び立つと直に綺麗な夜景を見ることができる 天気が良かったので とても綺麗だ しかしこれも上昇の途中であり 撮影はできない それが残念である
3月11日
この日は息子の公立高校一般入試の合格発表の日だった。
会社ではやや緊迫した会議の最中。しかし、合格発表の結果連絡が入るので携帯電話を持っていた。
息子の方は、倍率2倍だったが無事合格。電話の向こうからは歓声を上げる女の子の声が聞こえた。公私スイッチを切り替えながら会議を続ける。
やがて、まるで大きな船で荒海を航海しているような揺れが長く続いた。5分から10分くらい。
新潟の地震経験から、距離が離れているなと思った。
そして、地震から一週間。今、近くの施設にも大勢の方が避難されている。市内の学校は大方避難者の受け入れ体制に入っているようだ。
東北のお客様にも大きな被害。
会社の支店・営業所は、仙台と八戸で被害があったが、皆無事である。
各地のお客様の復旧作業に入っている。また、直接足を運ぶのにも限界があるので本社の営業からは、毎日、連絡を試みている。しかし、まだ連絡が取れないお客様が数十社ある。
中には津波で水没という報告もある。
去年お世話になった釜石のお客様も連絡取れず。近くにある新日鉄釜石のHPを見ると1階が浸水とあった。それよりも海側であるので心配である。仙台支店からは会社と経営者の安否は大丈夫と思うという連絡だけ入っている状況。地図を見ると港から1KMくらい。システムの復旧よりも、車両や建物の被害がどの程度なのかが問題である。
今できること。
まずできることは募金。なのでまず募金した。
次にできること。節電。そして燃料消費を抑えること。
会社では照明を半分にしている。暖房を切ったり、弱くしたり。
自宅では暖房の温度を下げたり。こまめな節電。これによって東北に回る電力確保に少しでも力に。みんなでやれば大きな力に。
会社からの帰り道。コンビニは皆、表の照明を落としている。コンビニだけではなく看板の照明を落としている店が多い。なので、帰りに買い物するつもりが気づかずに通り過ぎたりしている。しかし、みんなが静かに、しかし確実に実行しているのがすばらしい。
がんばろう日本。もう東北とか、東日本などと言っている状況ではない。
関東の被害の影響もあって、部品や機材が出庫できないなどで、生産の影響も出ている。
ただでさえ冷え込んでいる経済状況に追い打ちをかける大災害。しかしこれを乗り越えて日本がもっと強く、もっと優しい国になるのではないか。しかし、その前に、今、家や学校が無くなった人。家族や友人が見つからない人。亡くなってしまった人。そのとてつもなく大勢の人たちをみんなでサポートしていかなくてはならない。
そのためにも、報道を見て落ち込んでいるばかりではいけない。
明日から木曜まで京都に出張。復旧活動と関係しない仕事であるが、大切なお客様。一つ一つの仕事をしっかりやっていくことも、今できること。に、他ならない。
中学の卒業式
自分のときには、最後に合唱などあっただろうか。
フル充電したものの、写真は50枚分撮れるから、十分だろうと思って参加した。。。
全校生徒での合唱と、卒業生全員での合唱。卒業生の中には、息子が保育園から一緒だった女の子が一人。小学校から一緒だった子は、おそらく約半数。毎日迎えにきてくれていた友人も同じクラスだ。そんな彼、彼女らの歌声は美しく、目頭が熱くなった。
この感動を2分くらいしか納められなかった。この不完全さが、明日へのエネルギーに!などと勝手に思っているが、すまん。息子よ。
写真は、担任の先生の最後の話の中で、黒板に貼られたもの。
みな、色んな道へ一人で歩き初めていく。中学の卒業は、その第一歩に違いない。
お世話に成った先生方はじめ、多くの皆様、有難うございました。
最後の授業。と言っても、私のことではない。
息子の義務教育における最後の授業の日。そして学校給食を食べる最後の日でもある。
今日のメニューはカレーだ。
男の子というのは中学くらいになると写真を撮られるのを嫌がるものらしい。とくに私がそうであったわけではないので、よく分からないのだが、うちの息子はそうだ。
なので最後の通常授業の登校日だからと言って、写真など撮らせてくれるわけもなく。
小学校時代から仲のいい友人が、雨の日も雪の日も迎えに来てくれた。なのにいつも待たせている。けしからんのだが言っても言っても改善されず、結局、最後の授業の日を迎えてしまった。
1~2分だったと思うが、結局、待たせてしまった。
で、彼らの後姿を携帯電話のカメラでパチリ。写り最悪。でも無いよりは良いのではないか。
この写真を彼が見る日はいつの日か。おそらく成人した頃に、このページを見せることになるのではないか。そう思っている。
今度の月曜は卒業式。午前中だけ休んで出席することにしている。
そして水曜は公立高校の入試だ。既に私立は合格しているものの、このご時世であることと、少し家から距離のある市街地の学校にバスに乗って通うのは、彼にはいいことだという思いもある。きっと合格してくれるだろう。
その学校は、やや敷居があるので、今の中学から受験する男子は、息子だけだそうな。もう若干名いたらしいが、変更したようだ。女子は数名いるらしい。その中の一人の女の子の名前を聞いて、思わず笑ってしまった。
息子が通っていた保育園から、彼が入学した小学校に入ったのは、彼をいれて二人だけであった。もう一人は女の子。その子の名前が受験するメンバーに入っていたのだ。
ここでまた彼女の名前が出てくると言うのは、なんか愉快だった。二人とも合格すればいいな。そう、願っている。
娘と息子、順番に連れて医者通い。
娘は私と同じ症状で、普通の風邪。息子はインフルエンザだった。
高校入試最後の模擬試験も終わり、休み明けには最後の期末試験。それにはギリギリ間に合うのではないかと思う。
とうに引退した陸上部。この写真は、最後のサイズが小さくなってお役御免になったレースシューズ。お別れの記念に撮ったものだ。
高校に行って、彼が陸上をやるかどうかは分からない。まずは入試が終わってから考えること。
私も3月は忙しく、入試の日に会場に送れるか分からない。出張でいないかも。
昔から、自宅で大変なことがあると、いつも出張でいない。妻は私にそう言う。
できればたまっている代休でも使って、送迎してやりたい。
インフルで寝ている息子を横目に、そう思う。
マミヤ35 EE メリット
実家にあって、私が初めて触れたカメラである。また、私が始めて被写体になったカメラでもある。
インターネットで検索したことがなかったのが不思議なのであるが、これが、マミヤ35 EE メリットだ。
http://www.mamiya.co.jp/home/camera/museum/saishu-page/1960/mamiya35-ee-merit.htm
発売年を見て、少し驚いた。私の生まれた年だ。
そうか、52歳で亡くなった父が、私が生まれるのを機に購入したのだと思う。
このカメラは10年くらい前に、故障したのだが、実家にあるはず。でも、どこに行ったのか。
このカメラで父や母が撮ったフィルムが沢山あり。たまにフィルムスキャナーで蘇らせると、実に懐かしい画像を見ることができる。
先日も何枚か母にプレゼントした。そう、毎回、焼き増しするものでもないから、初めて見たと喜んでくるものも多々ある。
昭和の記憶を記録してくれたカメラ。それが同い年であったことに幸せを感じた。
2010年も残り少なくなった。
昨日、今日と、片づけやら買い物やらと動いているうちに、日は沈み終わろうとしている。
さきほど、ちょっと用事を頼まれ、なんとなくカメラを持って出かけた。
ふっと空を見上げると、大みそかから年明け元日は雪だるまマークであるが、強い風の中に暮れ急ぐ陽の光が見えた。なので、ついでに遠回りと言うか、反対方向へ走り、信濃川の土手沿いをUターンしてから、弥彦山、角田山方向を信濃川とともに撮影。2010年の最終カットを添付しました。
今年は寅年。私の年であったことを忘れていた。それほどバタバタと忙しかったのであるが、年明けも、そのバタバタは続く。忙しいのは良いことであるが、それに忙殺されていては、次につなげて発展させていくことができない。忙しいと、何も見えなくなってしまいがち。来年は、そんなことにはならないようにコントロールしていかなくてはいけない。
皆さまにとっても、ぜひとも良い年となりますことを祈って。
2010年のラストメセージといたします。
来年も、よろしくお願いいたします。
まあまあの距離を移動したのに出張写真撮れず。
大阪のホテルは4階だったので低いというのもあるし、窓からの景色に大阪らしさの欠片もなかった。
福岡のホテルは、なんと2階だった。天神という繁華街にいたのに窓の景色に福岡らしさなど、みじんも無かった。
仕方ないので、少しおしゃれなベッドをパチリ。
天神にあって、この雰囲気。ちょっとビジネスっぽくない気もする。ダブルだし。
福岡空港に向かう途中。唯一、外の景色をパチリ。
ちょっとしたタワーは、博多タワーと呼ばれていたそうだが、今はもう過去のしろものらしい。
最後のさいごに撮ったのも、なんだかなあ。。。だった。
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仕事とは別にもう一つ大事なことがあった。
鹿児島出張中に倒れた福岡支店の方のお見舞いである。
今回初めて聞いたことは、その方が倒れた日の午前3時に、奥様に電話があったということ。
きっと普通ではない状況だったのだろう。そこで救急車を呼んでいたらと思うが、出張先だから、きっとホテルだったに違いない。体調悪いがなんとかなると思ったのかと思う。
客先で倒れ意識不明となり、1か月以上、意識が戻らず。
しかし今は、声をかけると目が開いたり閉じたり。声をかけると口元も少し動く。そうしたところまで回復している。
奥様は毎日病院に通っているらしい。
お見舞いに行った人は皆思うそうだ。うちの女房はこれほどまでに尽くしてくれるかと。
奥様は笑顔で私たちを迎えてくれた。必ず良くなると信じているに違いないし、私も信じている。
あの口元は言葉を発しているに違いない。
奥様の愛情が、必ず奇跡を起こす。私はそう確信し、帰途に付いた。
皆の気持ちが届きますように。どうか、おねがいします。
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